郷愁

私は、郷愁を感じることは、滅多にない、ほとんど、なし。
今、背の高い、黒人のお兄さんが、背中に三つ、バックパックとその上に二つ、両手に一つずつ、大きなボストンバックを携えて、通りすぎた。ルクセンブルグ公園を東門から、西門へ、。Tシャツ、早歩き、さっぱりした格好。が、が、が、なんか、雰囲気としては、今日までの居候先から、次の居候先への引っ越しみたいな感じがする。 なんか、そんなオーラをだしてる。なんか、身につまされる。ような気がする。私もいつかこうなるのかいな。というのも、もう、パリに来て、何と八年も経ってしまった。連れ合いの仕事の関係で、後一年は、パリにいなくちゃ。しかし、フランス語は、もう、いいや。できたら、英語圏に、行きたいな。風来坊、やはり、アメリカ、西海岸、ロサンゼルスに出没したい。私の弱点は、一つ事をじっくり、取り組んで、大成する、なんてことは、ありえない。困難な場面での粘り強さは、、、、、ない。 よく言えば、臨機応変、器用貧乏、それと、セックス大好き。
腸内細菌を増やして、快便、それが、セロトニン、ドーパミンを増やすことになることを思い出してね。
皆さま、ごきげんよう。
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アートギャラリー ビジネス

プロフィールに載せてるMR.MUSCLEは、自分の作品です。作品とは、おこがましいですが。
大分前に、アートギャラリーをやりたいと思い、最寄りの警察署管轄の古物商登録したり、有限会社をこさえたり迄、した。そして、版画を売る会社の販売員募集に応募してみた。そしたら、私の考えていたギャラリー商売と、実際に行ったギャラリー商売は、全然違ったものだった。 海中の生物を描いた、写真製版による絵画、大体、四十万から、大きいもので、五十万のものを、月賦で、売る。二年ローンで、毎月、二万円位の支払いで、購入してもらう。二万円割る三十日で、一日コーヒー二杯ぐらい節約すると、この絵をあなたのお部屋に飾れるんですよっていう、セールストークを学ぶ。その当時は、コーヒー一杯の節約でした。絵をお部屋に飾ると、そこが、窓になるんです。無限大の空間が広がって、お部屋が広くみえるんです。版画は、枚数に限定があるので、人気のあるものは、市場に出る枚数が減ってくるのです。で、すから、出会った時が、チャンスです、このチャンスを逃すと、もう、この絵には、出会えません。さあ、契約台にいきませんか?     -----違うのじゃ。第一版で、百枚刷って、売り切れれば、第二版、もう百枚、刷るのじゃ。第三版、第四版、いっくらでも、刷れるのじゃ。あたりまえの話ですが。
10日間の研修後、我ら新人の展示即売会デビューの日、先輩達は、入り口の方の部屋で、入ってくるお客さんをつかまえる。新人は、奥の方の、何か、売れそうもない高額のものとかある部屋で、セールストーク集を後ろ手にもって、待ってる。
エルテというアールヌーボー期に活躍した、女装版画家の大きな作品の前で、二十歳くらいの女の子が、動かない。二百万もするので、この子が、買うわきゃない。けれど、練習には、ぴったりだ。
「この絵は、お好きですか?」  「はい、すごく、すきなんです。」あと、私は、勿論、何を言ったのか、全く覚えていない。付き添いの教育課長が、すうっと来て、瞬く間にエンディング、即ち、さあーっと契約台に案内する。契約しました。後から聞いたら、喫茶店のウエイトレスをしてる子で、アパート住まい、でも、ローンの審査は、通ったそうだ。保証人をつけたらしい。あと、おばさんの後ろにくっついていたら、
「この絵、玄関に飾ろうかしら、どう?」って、もうひとりのお友達に聞いた。「あら、いいじゃない、私も買おうかしら」それで、二枚。 販売員控室休憩所には、もちろん、全販売員の売り上げ棒グラフが、貼ってあり、私の棒が、ほぼ、最高にのびちょる。他の新人も結構売った。まあ、教育課長ともう一人、係長がついてるから、当然ですが。 お弁当を食べてる時に、先輩の若造の係長に、
「しょっぱな、バーンと売り上げちゃうと、後、努力、勉強しなくなるから、売れなくなるよ。」と、言われた。
果たして、全くそのとうり。福島の会場で、「あっ、これ、下さい」というお客に、一枚売れたのみ。あと、ぜんぜんだめ。全く、売れず。
絵が好きなのと、絵を売るのは、全く、別のことでした。 因みに、この会社は、まだ、存続していて、サイトで、若い営業部長が、営業のおもしろさを一席披露していた。マザーズに上場してるが、役員は、社長の縁戚でかためてるみたい。上場利益を一緒にわかちあいましょう。こういうのに、私、弱いみたい。
私が、考えているギャラリーは、レオ キャステリというニューヨークの伝説ギャラリー オーナー. 新人アーティストをスターダムにおしあげる。私自身は、勿論、そのアーティストの売れる以前の作品を大量に買っておく。そして、それを大金持ちのコレクターと美術館に売る。という、濡れ手に粟の商売。そこで、例のセールストークをぶちかますんじゃ。

パリのアフリカ市場

ちゃんとした、公設市場、マルシェじゃあ、ありません。お上の目を盗んで、セリーヌ、ルイヴィトン、シャネルの偽物を売る兄ちゃんが、わんさかいるのが、シャトウルージュというメトロ、地下鉄の駅から、すぐのところ。ここら一帯は、アフリカのおばさん達が、食料を買い出しにくるところで、そのおばさん達を狙って、路上売りのにわか密売人がわきでてくる。もちろん、ちゃんとした、魚屋三軒、八百屋、果物屋、ハラル肉屋四軒、パン屋さん、後、ベトナム系のひとがやってる、アフリカ物産屋が、七、八軒はあると思う。野生のコーヒー豆屋も一軒、野生のモカ豆、250グラム約五百円をペーパーフィルター用に挽いてもらう。私は、おいしいと思うんだけど、門番にいわせると、泥水だっていう。ちゃんとした商店街なんだけど、店の前は、勝手な露店というか、露店というまでもいかない、原始取引。おばさんが、売ってるのは、最初、蛇を真っ黒に焼いた、おまじない用のなんかか?匂いも、くさやみたいで、なんかするし、、、
それを地べたにおいてる。昨日、たかさんにきいたら、あれは、魚の燻製で、だしにするんだそうです。納得。兄ちゃんが売ってるのは、焼きトウモロコシ。一本、2ユーロだと思う。スーパーでトウモロコシ結構高いので、一ユーロちゅうことは、ないはず。とうもろこしをフランス語で、マイスというので、にいちゃんらが、”まいす、マイス、マイス”って歌うように、呼びかけてるので、最初、ねずみかとおもいました。まさか、ミッキーマウスをうるわけないか。私は、月一、かならず、オクラを買いに、ここ、シャトウルージュにやってくる。
で、そのベトナム系のひとがやっている乾物屋の店先で、葉っぱ、トマトみたいななんか、タロイモ、とんがらし、それと、オクラ、。緑の葉っぱは、なにかわかんない。これを、アフリカのおばさんたちは、結構、一束、二束、買っていく。ほうれん草でもないし、三つ葉なんかより、もっと、葉っぱがいっぱいあって、野草。他の地域では、みたことないが、ここの、どの乾物屋の店先にも、おいてある。店先の、これら野菜売り場というか、そとには、かならず、見張りの兄ちゃんか、おじさんがいる。で、おくらを買う分、ビニール袋に詰めて、店内のレジにもっていくんだけど、店内売っているもの、ほぼ全部、なんだか、わかりません。いやー、ほんとに、わからない。一回、三角形の、粽みたいに、竹の皮みたいで包んだものをかってみたんだけど、なんか、安くて、もち米でもないような、よくわからんものだった。お客は、ほぼ全部、アフリカのおばさん、お姉さんだからして、ベトナムの粽のはずはないとおもったのですが、謎。
だから、私にとっては、楽しい。バナナだって、わざわざ、皮が真っ黒か、茶色い斑点が、目いっぱいのを売ってるし。魚屋では、ありゃ、ピラニアだよ。ドラード、黒鯛だけは、わかる。シンシャ‐、鯵、これもわかる。サーモン、ここでは、みかけない。なんとなく、アフリカ沖で獲れるのを冷凍でパリへもってくるみたいな感じが、しないでもない。エビ類もおいてないかも。食料買い出し所なので、そんなに、あぶなくはない。ただし、ブランド偽物売りが、辺り一帯にわんさかいる時は、自分のお財布には、気を付ける。
ポリス三人が、駆け付けて、兄ちゃんを一人、地べたに押し付けて、手錠はめたのをびっくりしてみてたら、気が付いたら、私の周りにだれもいない。四秒前には、人ごみの中いたのにね。蜘蛛の子を散らすという表現をわが身をもって学びました。なんか、やばいものを売ってたのかなあ。
メトロ、地下鉄四号線は、パリ中心を南北に走ってます。北の終点は、クリニヨンクール、蚤の市及び骨董屋さん街。北から下ると、シャトウルージュは四つ目。観光ポイントでは、絶対ないので。その次が、バルべスロシュシュアー、水曜日と土曜日に市が建つ。が、お客は、アラブ、売り手もアラブなので、安いけど、品質、今一、今二かなあ。掛け声は威勢いい。が、なんか買って、満足したことないなあ。ここを西に少し行くとパリの歌舞伎町、ピガールです。その次の駅が、北駅、東駅、両駅とも、大改装してるので、綺麗ですが、いぜんは、両駅前には、私みたいな人相悪い男どもが、わんさかいて、汚い駅でしたが。私は、大きな駅とか、盛り場、繁華街で、いままで、摺られたとか、ない。大体、いい男いないかなといつも人の顔ばかりみているからかね。小銭くれっていわれるのは、しょっちゅうですが。
バルべスロシュシュアーの次下ると、シャトーローですが、ここは、私は、さすがに怖い。パリのなかで、ここが、一番、殺気だってる雰囲気があると思う。バルべスから北へシャトールージュへ歩くと、携帯電話屋がずらっと並んでて、雰囲気悪いけど、シャトーローは、危険度最高。
危ない四号線北の方ですが、いま、ルイビトンの偽財布とダイヤモンドが一杯ついた19ユーロの腕時計、ちょっと欲しい。
重要なことを忘れてた。夏に、このメトロ四号線で、シャネルのサンダルを見たんです。アフリカ系のおばさん、上から下まで、ブランドで固めてた。で、足元、少し、メッキのはげた、Cの文字が組みあわさった、いかにも、本物じゃない、もう、堂々をした、そこらへんのサンダルに、ただ、シャネルのCを付けましたっていう、コピー?ったって、もともと、本物にサンダルなんてないはずなので、商標権侵害にならんのかも。笑いたくなったのですが、本物に、限りなく似せた、ハンドバッグ、時計じゃなく、意表を突く、一瞬、あれっ、このブランドで、こういうもん、あったっけ?という商品、私もほしくなった。

皮切り三姉妹

地元の駅、京浜東北線の駅にニ、三軒しかない、酒場、雄山(おすやま)に、毎週末、通ってた頃、包茎の話で盛り上がって、ママの小川ちゃんが、
「はーい、皮切った人、手をお挙げ。」
お酒も入ってるし、ここで、何か、いい男を見つけようなんて、誰も思ってないから、私と、ハタちゃんと、稲ちゃんが、”はあーい”と手を上げました。まず、ここで、全員、一笑い。すかさず、小川ちゃんが、
「あんたら、皮切り三姉妹だよ。」 コマドリ姉妹じゃ、あるまいし、まったくう。
今も、その時の小川ちゃんのうれしそうな顔が浮かんできます。 で、ハタちゃんがいうには、、
「僕が手術したその日に、包帯取って、彼氏とやったら、血が、ばあーって噴き出してきて、彼氏の口ン中血みどろで、たいへんだった。」 そうだ。そりゃそうだ。縫ったその日に刺激与えるなんて、無茶だ。私が手術した日から、次の日の朝、朝立ちしたとき、縫い目をひっぱるから、もう、痛くて痛くて、うんうんうなったのを覚えてる。日に日に、痛みは、消えていくので、今、思えば、です。が、一週間位は、毎朝、地獄だった。新橋と田町の間の、山手線から看板のみえる、叶泌尿器科性病科、十万円。
私のケースは、嵌頓包茎で、先っぽの輪が、小さいので、強引にむくと、鬼頭の根元を締め上げるので、そのままにすると、鬼頭に血が通わなくなるんだと思う。 それと、夢精がおおすぎた。高校入試の当日とか、何か、大事な日に、夢精しちゃう。で、パンツを、洗濯機がまわっているときに、投げ込む。母親も、あれ?何で、いれたはずのないパンツが、はいってるのかしらと不思議だったはず。
ロサンゼルス滞在時は、保険にはいってて、適用OKだといわれて、じゃあ、明日手術しましようといわれたけど、結局、手術キャンセルした。それは、それで、よかった。というのも、前は、嵌頓包茎で、はずかしいし、後ろは、痛くて痛くて、できない。よって、危ないセックスは、できない。それが、三十年前のロサンゼルス、エイズ真っ盛りの時に、私の命を救ってくれたんだと思う。大げさじゃなく、。嵌頓包茎に、感謝しなくちゃ。
ロサンゼルスから戻って、程なく、叶先生にやってもらいました。手術後は、大きさとか、ほとんど、気にならなくなった。が、切る前は、常に包皮で包まれてて、中身は、すごいきれいな、ピンク色でした。が、術後、だんだん、色が悪くなり、うっすら染みもでてきて、悲しい。これは、年齢のせいですかね。ホームドクターに聞いてみようかな。高校生から三十位が、セックスというか、性機能が、一番活発な時かと思うので、致し方ないのか。ようやく、バイアグラとかに、すがる人の気持ちが、実感できる年代に入ってきてしもうた。自分は、まだまだ、現役バリバリじゃなんてね。
大井町の雄山という店は、もう、とっくの昔、なくなっちゃった。常連に外人も三人もいた、デブハンス、やせハンス、レスリー、。
大みそかの日、祖父さんの形見の大島紬を着て、自転車で雄山まで出かけ、自転車の油で、染みを一杯、着物につけてしまった。
しようがないので、洗濯機で洗ったら、(勿論、メモリを絹にあわせました。)大事な風合いが、とんでしまった。
さてさて、”三姉妹”という題名のNHKテレビ日曜大河ドラマは、1967年に放送され、三姉妹役は、岡田茉莉子、藤村志保、栗原小巻の女優さんで、その他、名優さん綺羅星のごとくの出演です。みんな、そんな古い俳優さんなぞ、しらないか、

パリの三姉妹 

一昨日、十月十一日、水曜日夜は、旦那様、前のボスの送別大宴会で、真夜中ご帰還。
よって、私は、テレビみながら、この原稿書きでした。オーランド ブルームの、海賊じゃなく、十字軍のなんとかをみながら。
夕方には、近所のアンドレとピエールのゲイカフェで、栓ぬいたシャンパンあるか聞いたら、あるっていうから、二杯十八ユーロ、飲んじゃった。新しく一本開けたら、ある程度は、飲まなくちゃあ悪いのと、一人だから。閉店間際、他の普通客がいなくなると、少しの間ですが、ゲイバーに変身。赤白ワイン、カウンターで立ち飲みは、一杯2.5ユーロ。二百七十円位。だから、シャンペンは、高いんですが、夕方は、たまにしか来ないから、金使わないと、ね。朝は、ジョギングのあと、寄るけど、カフェアロンジェ、アメリカン一杯百二十円だから、あまり、ばかっぱなしは、できないので。
煙草も売ってる。ロト、宝くじはやってない。切手は、ある。煙草を買いに、十八位の若者が入ってきて、ピエールとアンドレは、私に、目くばせ。珍しく、さわやか青年で、スポーツタイプで、セクシーさもあって、帰り際、アンドレに、にこっととして、出て行った。にこっとした意味をまだ、確認してないんだけど、私も彼の後につずいて、店をでたので。出たら、そのさわやか青年の後ろに、もう一人、きしゃな青年が、どうも、爽やか君を後つけてるみたい。なぜ、ピエールとアンドレは、私に目くばせしたかというと、それは、勿論、私が、シャンペン二杯も飲んだから、その見返り?ってなことは、ないか。
あくる日、十二日朝、月一のフランソワのお父さんお母さんのお墓詣り、代参で、行く途中、地下鉄メトロで、これまた、25位のがたいのいい、青年に遭遇。私の理想は、ベン アフレックなんですが、ちょっとにてるかな。Tシャツの上に、赤の格子シャツのをはおっているので、胸は、厚いけど、おへそがくびれてるのがわかる。背丈は、私とほとんどかわらないのに、骨格とバランスが違う。少し、がにまたで、シャツ腕まくりしてるので、肘に、少し、皮膚の色素が抜けている。写真家ハーブリッツの有名な白黒写真で、ガレージで働く若者が、両手にタイヤ持って、こっちを見ているのが、あるんですが、この写真の若者を思い起こさせる、青年じゃ。
見る分には、ただ。私は、人妻、手を出すわけにゃあ、いかんぜよ。もっとも、お茶しない?っていうセリフ、フランス語で知るわけないし、朝の通勤通学時間帯で、そんなこと、、、、、。いや、マテ、
大分、前、アリアンセ フランセで、偶然、ゲイが三人も同じクラスに揃った。アリアンセ フランセは、ゲイの若者、結構みかける。
で、32位の シャー 、 マレーシア、  35位の ホアン、メキシコ系アメリカ人、 そして、25才の私、日本人、25才は嘘です。
シャーが、メトロ一号線で、捕まり棒につかまってたら、スーツの男が、棒つかんだ手をずるずるとさげてきて、シャーの手にくっつけたか、シャーの手を握ったかなんかして、シャーに名刺を渡したんだそう。 それで、クラス終わった後、シャーに くっついて、シャンゼリセのその名刺の住所を見に行った。高級物件の不動産屋さんでした。 そういえば、私も、某所で、突然、名刺をもらったことあったっけ。ぐひゃああ。 マレーシア航空機が、たてつずけに、行方不明と、ウクライナ上空で、撃ち落されたころの、少し前ぐらいに、一緒に一か月か、二か月、お勉強しました。シャーは、ロンドンで、建築、インテリアデザインを学んで、なんでパリに来たのかは、知らん、フランス人のアルノーとPACSして、アルノーの転勤で、モンペリエに行きました。マレーシアの上層ゲイ社会は、狭そうだから、シャーは、消息絶ったゲイ機長を直接か、間接に知っていると思うし、風の便りで、ブラッセルに デザイン事務所の拠点を設けたそうだから、何か、灰色の部分がある、少しお調子者。
ホアンは、アーテイスト兼商売人。仕事で、パリにきたが、突然、そのお仕事、キャンセルになり、暇なんで、アリアンセに来てた。その時は、坊主頭だったけど、若いころの写真を見せてもらったら、夢見る瞳のかわゆい美少年が写ってて、思わず、私は、笑ってしまったほど。行く先々で、声かけられてた。朝のカフェで、私と一緒にいった、マレのゲイディスコで、。クリストファーというパリで翻訳やってるイギリス人と付き合い始めて、一年後、パリで結婚式を挙げた。そして、二人で、なんと、値段が安いとかで、デトロイトに家を買って、引っ越していった。その後、メールしても、返事さ、来ない。  
ホアンも、シャーも、美貌を武器に、パートナーをひっつかまえて、いろんな町を舞台に、お芝居を人生を演じる。
芸は、身を助ける共、いずれにしても、生きていくのは、大変だすなあ。 が、ゲイは、そこを華麗に演じるだす。
つい、先日、テレビで、マタハリの番組、やってたなあ。 

私の暗黒時代

いざ、自分の都合の悪い話は、思い出したくナーーーい。
ロサンゼルスから、東京へ戻って、ロンドンへ転出するまでの長い間は、私の、少し暗黒時代でした。デイビッドと一緒に住んだ楽しいことも、勿論、あったけど、結局、奴は、私を踏み台にして、次の仕事で、韓国にいってしまったし、私が現地妻だったことにきずいたあとには、少し、なんか、意欲をなくした、誰かさんが、東京砂漠にぽつんとたたずんでた、クールファイブです。
奴はだ、サンフランシスコにボブさんと買った一軒家のローンの送金で、稼ぎの大半を送金してた。もちろん、家賃食費を彼からもらってはいたが、尚且つ、彼は、ベジタリアンで、野菜しか食わなかったが、そうはいっても、いろいろお金は、いるもんだ。勿論、ディビッドは、海軍三年我慢して、除隊後、サンフランシスコ州立大学比較文学をちゃんと卒業した頑張り屋さんで、私の父が、「あいつは、いいやつだ。」と珍しくほめた。私の従兄のことを 父は、死ぬ前、「あいつは、だめだ。」と言って、その時は、意味がわからなかったが、最近、なんか、わかってきた。従兄の息子は、折角、電機大受かって、学費はらったのに、一日行って、辞めてしまい、引きこもり。従兄0は、人には、強引で辛辣なのに、自分のこどもには、甘い。問題だ。が、私のいまだ独身の妹は、私には、毒舌なのに、従兄には、惹かれてるみたい。なんか、変。もちろん、従兄には、ちゃんと奥さん(電機大蹴った息子の母親)いるのに。
さて、私の七転び七倒れの、暗黒時代、アメリカのブランドの輸出入担当と、中東の航空会社の代理店の貨物担当をやったときに、ちょっとましな給料をもらったくらいでした。飛行機とコンテナ貨物船で動かす貨物業務全般が、わてのお仕事だす。貨物営業は、だめだった。空と海、輸出と輸入、の業務をかじった。
大失敗:::::エアバス340は、平均、約十トンの貨物を搭載できる。手荷物を除く、おおまかな、平均値です。緊急のオートパーツ十トンを受けてしまった。現地の組み立てライン用で、これがないとラインが止まり、えらいことになる。ラインが止まった場合、莫大な損害賠償が発生する。その当時、週二便しかなかった。他の貨物も、ずるずる受けてしまい、十八トンになってしまった。この十トンのみ搭載指示依頼を空港にだしたが、空港現場は、急ぎの十トンを落とし、他のを全部搭載して、飛び立ってしまった。私は、真っ青。結局、その急ぎのオートパーツは、他社便で運ばれたが、経由便なので、高い他社便との運賃差額四十万は、当然、うち払いとなった。支配人に知れたら、私のお給料から天引きされちゃうので、経理のおばさんが、うまく処理してくれた。あーあ、一体、カリフォルニアの青い空は、どこさ、いっちまったんだべ。やってられんぜ、もー。何が何でもやってやろうという強固な意志、この仕事がすきですきでしょうがない、こういうものが、私にない。かわいい子供の為にがんばろうにも、子供は、うめないし。あー、、、、、、、あ。
てなことで、生活、縮小、最低限、銭湯通いでひとのおちんこチェック、ある日、あれーこの子の顔、なんかみたことある、、、、変だなー、いや待て、足がすごく毛深い子だ、足の毛を全部、剃ってしまっただ。いやー、ようやるわ。
で、素性を隠し、ぼろをまとったプリンセスは、ある日、星の王子様に見出されたのでありました。   お わ り

ロサンゼルス リトルトーキョー 1987年

隙間だらけの、私ですが、この頃、三十才前後が、一番、何かもてたような気がする。おばさんには、絶対好かれた。
前号の ”謎の中国系アメリカ人 フェン プー”で 述べた如く、月ー金の午前中は、学校へ行って、午後は、ダウンタウンのリトルトーキョーのお店でアルバイトしました。今も、あるとおもうんだけど、羅府新報という、ロサンゼルス発行の日本語新聞で、簡易宿泊所とか、バイト募集、売ります、買います欄で、ほぼなんでも、用が足りた。
フェンプーとは、アの一件後も、私の前彼のデイビッドと彼のロスの家へ押しかけたりしましたが、さすがに もう、音信不通です。最後に会ってからも、二十年経ってる。
羅府新報の活字が、なんか、大正時代みたいな、古い字体でしたが、なんとか 読めた。
リトルトーキョーに、ウエラコートというショッピングセンターがあり、当時 松坂屋が店をだしてた。私のバイト先は、化粧品から、イタリー製フランス製ハンドバッグ、ネクタイ、ベルト、クロスのボールペン、ゴルフ用品、スカーフ、時計、を売っていた。すべての、日系旅行社とタイアップして、すごい売り上げがあった。 最大の顧客は、ハネムーンカップル。お祝いをもらってるので、何かをかっていかなくちゃならん。十万円、御祝貰って、おみやげにTシャツというわけには、いかない。で、クロスの金のボールペンとか、ネクタイ、スカーフとかになる。 ブランド物のハンドバッグがよく売れてた。 松坂屋とくらべると、うちの方が、品ぞろえ豊富で、若干安いか、同じ値段で、うちは、一か所で、何でも揃うので、便利。 いろんな団体さんがきてたけど、関西のある、お金をうやまう宗教団体の御一行様が、一番、優雅で、一杯買ってくれて、旅慣れしてて、上品でした。私も、お金持ちだったら、入りたいと思ったほど。
私は、ゴルフ売り場兼、倉庫品出し、値札付け、兼用心棒。一回、メキシコ人のチンピラみたいのが、団体が入ってる時を狙って、お店にはいってきて、なんか悪さしようとした。鈴木さんが、「こいつら、見張って」と日本語で大声で、私に言うので、奴らにくっついた。
後の人達は、団体さんの対応で、てんてこ舞い。そいつら、金時計をみせろっていう。仕方ないので、見せたら、帰っていった。
危なかった。 旅行ガイドさんには、勿論キックバックあるし、我ら店員も売り上げに応じて、ボーナスがあるので、べテラン販売員のおばさんは、新婚さんだと、最低十万円は、買うまで、放さない。ランキング一位は、いつも楊さん。よって、おばさん同士の派閥すごい。
私は、いつも、売り上げ、ビリ。だからよって、どのおばさんにも、いい男は、好かれて、敵対派閥の両方から、お昼に誘われた。
これで、いっちょ前に売り上げ立ててたら、たたかれてたろう。まだ、バーコードなんてない時代で、全部手書きインボイス。それを、コンピューターがかりの、なんとかさんが、全部いちいち入力して、集計してた。よく、値段とかいろいろ間違えるおばさんいたけど、旦那がガイドさんで、一杯お客さんつれてくるので、怒られなかったみたい。おおげさだけど、キックバックで、家を立てたちゅうガイドさんもいるという話もあった。 売り上げすごかったはずです。松坂屋は、もう撤退したみたいだし、このお店も、もう閉店したみたい。
並びの他のお店は、ほんまもんのMADE IN AMERICAのTシャツとか、キーホルダー?とか売ってたみたい。カリフォルニアみやげって、なんだったんだろう。そうそう、カリフォルニアオレンジ、グレープフルーツも日本へ発送してた。
何軒か先のお土産屋のおじさんが、おかまだけど、なんか、売り上げる人らしく、うちの女の子を介して、お茶しませんかって言ってきた。まあ、断る理由もないし、どういうおかまなのか、みてもいいかなと思って、御誘いに乗ってしまった。その女の子は、一緒に来んかった。その、おっさんのアパートに入った途端、もー、キス攻撃。ソファに座る暇なく、ソファの周りとダイニングテーブルのまわりを追っかけっこ。逃げ切ったんだけど、アパートに入る時、くつを脱いだはずなんだけど、靴はいて帰ったのかな?
私は、初めて見る人だったんだけど、向こうは、偵察に来てたのかいな。


謎の中国系アメリカ人、フェン プー

私は、29才の時、約一年間、アメリカに行き、ロサンゼルス、ハリウッド ブルーバードとバインの 交差点、キャピタルレコードの丸いビルのそばのアカデミー パシッフィック ビジネス アンド トラヴェル カレッジに行きました。 長ったらしい名前ですが、  早く言えば、スチュワーデス養成専門学校であります。今は、フライトアテンダントと言わなければならないのですが、スッチーのほうが、わかりやすい。 以前、航空貨物の仕事だったので、まあ、少し関連性があるかなあと思って、卒業しましたが、その後の仕事に何も、やくだたなかった。 スッチーになりたい人、あと、旅行代理店で働きたい人、が、多分、州の学費援助かなんかを使って、主に航空会社に就職して、後で、学費を月賦で返すみたいな、若者が、主。 学費を毎月払うのは、私位のはずだったみたい。結構、学費高く、アルバイトはしてたけど、足らずに親に百万円送金してもらった。ありがたい親でした。
よって、本科のクラスメートは、ほとんど、アメリカ国籍のメキシコ系若者。彼らは、英語、スペイン語を話すので、就職先は、エア メヒコとか、中南米、南アメリカのエアライン。 どうみても、麻薬のディーラーにしかみえない兄ちゃんが、フィリピン航空かに入った。学校の掲示板に写真と就職先が貼りだされるんです、卒業時期になると。
トムブラッドレーロスアンゼルス国際空港は、ターミナルビルが、当時、8つもあって、それだけ、人も必要ですよね。
就職斡旋担当は、すごいつけまつげの日系のおばちゃんで、私に、ウイルシャー大道リにある、日系のマンパワーの事務所に行って、就職先を探せと、名刺をくれたけど、行かなかった。なんで、わざわざ、ロスアンゼルスまで来て、マンパワーにいかなならんのかというのと、このまま、ロスには、いないほうがいいと思ったので。 当時、まだ、抗エイズ治療薬は、ないか、ものすごく高いかで、このまま、ロスにいたら、カポシ肉腫抱えて、死んじゃうかな。。。。。。という漠然とした、いや、現実に多くのゲイの人が、倒れてるので、こりゃ、ちょっとやばいと。 しかし、今思うと、エイズのゼロ号患者は、エア カナダかのスチュワードだとされてるので、わざわざ、スッチー養成学校に行ったのも、矛盾してるといえば、そうですが。当時、日本の、エイズに関する報道は、ものすごいものがあった。
けれども、毎週末、ゲイバー、ゲイディスコ、はてまた、ゲイサウナ、行きまくり。危ない事は、しなかったので、幸いでした。
さて、我々、外人は、最初、英語クラスをとってから、本科に進む。
フェン プーは、私より、三か月かそこら前に、英語科終わって、本科終了後、アムトラックの車掌さんに就職した。アムトラックとは、アメリカの長距離列車を運行する、JRです。西海岸には、パシッフィックライナーが走ってて、人気ある。 彼は、数年で、車掌長になった。 彼は、上海生まれで、もともと、中華のコックさんでしたが、新天地求めて、アメリカへ来た。見かけは、パンダ、お世辞にも、ハンサムとは言えないが、頭はいいし、人の面倒見もいいし、真面目だし、私とは、仲がよかった。元ノースウエストのスチュワーデスの英語科主任のリンダが、同じ アジア系というので、何か、紹介してくれた。 彼のお父さんは、医者で、文化大革命でさんざんやられたらしく、それがもとで、亡くなったそうです。 本来なら、お父さんの後を継いで、医者か、弁護士とかになるのに、お父さんの轍を踏まないよう、コックになったそうですが、やはり、コックさんじゃあきたらず、中国脱出。
アムトラックの勤務体系は、三日昼夜勤務乗車の後、四日休みみたいなシフトで、彼は、休みの日は、株、球根ではなく、ストックマーケットの株をやってた。ほどなく、ロスのダウンタウン近くに、家をかって、間借り人を置いてた。
学校の英語科主任のリンダは、腕ぶっとく、見るからに、典型的な、ワンダーウーマン型アメリカ人。前の旦那は、ブラックで、カフェオレの小さな子供二人を育ててた。ある日、英語科で、空港見学に行った時、子供ふたりを連れてきて、空港の保安要員に、子供を誘拐したんじゃないか、尋問されて、頭に来てた。この時期、全日空がロスに乗り入れた時で、リンダが、全日空のコードが、NHであることを、皆に説明してくれた。 で、リンダは、フェン プーにプロポーズしたそうです。あとから、フェンプーに聞いた。フェンプーの人柄、真面目さ、頭の良さ、経済観念を見込んで、彼女の方から、結婚したいと。 けど、子連れだし、リンダは、怒ったら怖いので、フェンプーは、断った。まあ、順当なとこで、リンダも人を見る目があるんだなあと思った。フェンプーは、毎年、上海にいるお母さんの顔を見に、里帰りしてて、東京に立ち寄ることもあった。 ロスに私がいたとき、上海からお母さんを呼んで、私のおんぼろ車で、天文台に三人で、行ったこともあった。東京に寄った時は、私の家に泊まっていったこともあった。ロスに居た時から、フェンプーは、私がゲイだということを知ってたと思う。 私が東京に帰って、何年も経ったある年、フェンプーから、電話があり、成田でトランジット一泊して、上海に帰るから、成田日航ホテル迄、来ないか、というんで、会いに行った。部屋で、話そうというんで、シングルルームへ行ったら、いきなり、私に襲い掛かってきて、私にキスしようとした。狭い部屋で、逃げようにも、ベッドの上で、レスリングして、なんとか、勝って、逃げ帰った。いやー、私の事を好きだったのかね、だから、結構、昔から私の頼み事は、二つ返事でよく聞いてくれたのかもしれない。

涙君

今日は、悲しい、涙の話を聞いてください。
前号で、出てきた、澁谷のお店は、三十代後半から、東京を脱出する四十五才まで、よく通ったお店です。
そのころ、私は、貧しく、結局は、潰れた会社にかかわったり、収入は、ビデオ屋さんの店員をしたりして、今の連れ合いと知り合い、そこへ、前彼のデイビッドが、遊びに来たりとか、楽しいけど、考える暇のない日々でした。
要するにだ、私は、この店から、戦争花嫁として、今の旦那様に嫁いだ。
ロンドンに行く前、このお店で、半分、やっかみ?で、玉の輿に乗ったといわれたけど、ロンドンとパリで、平穏な日々で、今年で、知り合って十七年、一緒になって、十五年、結婚して、二年になりました。
自分でも、玉の輿だと思う。 私、お金を稼ぐのは、へただけど、お金を使うのは、うまい。勿論、そりゃ、ダイヤモンドとか、お洋服をじゃんすか買ったりは、しません。珍しいキノコとか、ちょっと高いスーパーマーケットへよく行くとか、そんなとこ。美人は、得だ。笑ってくれ。  フランソワの学校時代からのゲイの友達をみてても、物心両面で、旨く行ってるカップルは、なかなか、いない。
ひとカップル、三十年以上、一緒で、二人とももう、リタイヤ生活になって、ボルドーに家買って、今年、引っ越していった。
ボルドーは、世界でも住みやすい都市十位内に入った、フランスの唯一の町。
それで、その渋谷のお店に、今年、五月、里帰りして、連れ合いと四人で、お邪魔しました。その前に、ワインとか飲んだので、少しだけ、気分は、玉姫殿というか、タイムトンネルで、十五年前に戻ったような気分で、ママは、ちっともかわらないし、で、涙が出て、止まらない。 ママが、
「あら、あんた、泣いてんの?、 やだ、 泣いてんの?」
って、大声で、きいてくるんだけど、自分でも、なんで?涙がでてくんだか、わかんない。
勿論、毎年、御里帰りは、してて、いつも、いろいろ 旅をしているので、このお店には、なかなか、寄るチャンスがなかった。
私の両親は、もうとっくにお墓にはいっているし、私の、貧しいどん底五、六年をよくしってるのは、このママ。
そうか、だから、このママの顔を見ると、つい、涙ぼろぼろになるんだあ。  、、、(。>ω<。) 今、わかった。

さて/////コンサート情報/////のお時間です。   カテゴリーは、クラッシック
作曲者 モンテベルデ        曲目、 VESPRO DELLA BEATA VERGINE   一時間四十分
指揮  SIR JOHN ELIOT GARDINER (多分、彼の最後のワールドツアーかもしれない)
オーケストラ:ENGLISH BAROQUE SOLOISTS 合唱: MONTEVERDI CHOIR
所:  シャトーベルサイユ 王室礼拝堂
チケット*  PRESTIGE VIP ( CHAMPAGNE AND PROGRAME) 席は H列 ーー 前の方
時: 昨日 十月八日日曜日 午後六時から  

まず 正門向かって右の奥のイベント用入り口からはいって、ルイ十四世、十五世 十六世 並びにその王妃様方が 毎日の如く通った、礼拝堂の前で、シャンパン 一杯。 礼拝堂は、日中の拝観コースにはいってるのと、国宝なので、椅子が、折り畳み。この点のみが、マイナス五点。結構、けつが痛い。 トイレは、広く きれいで、合格。行列なし。パリは、特に、ご婦人用は、列、列、でたいへん。
出だし、ひげのバリトンさんが、正面上のバルコニー、パイプオルガンの下から、響く声の歌で始まる。ラテン語。途中から、少年少女合唱団十人位が、ここで、歌う。
オーケストラは、こじんまり編成で、中世のマンドリンの柄の長いテオルバが、3人、バイオリン 二人、トランペット三人、ベース二人、パイプオルガン二人、縦笛四人、縦笛先曲がり二人 大体こんなところで、打楽器なし。 オーケストラの後ろに クワイヤ合唱団兼ソリスト、男性十人、女性十人位。歌う人、テオルバの人、立ったり、後ろのバルコニーで歌ったり演奏したり、ステージ 右端、左端。こんなよく動く演奏会、はじめて。
演奏中盤から、歌も楽器も熱がはいりだして彼らの技巧が極限に披露され、もともとコンサートホールでない、王様王妃様のチャペル、音が、こだまして、それに三代のロワイヤルの歴史がこだまして、心躍る、珍しいコンサートになりました。
観客全員、スタンデイングオベーション、総立ちで、拍手喝采、本当に素晴らしい コンサートでした。




女子プロ ビューティーペアと? 

前号で書いた、ちっちゃなゲイディスコ ”MAKO” は、1980年に隣のビルにうつって、”MAKO2” となり、1985年五月、突然閉店したそうです。なんと、五年も営業したんだあ、そうかなあ、もっと短かったような気がしないでもないけど、まあ いいや。
真夜中、十二時になると、例のモンペのお母さんが、
「さあ、閉店よ、帰って、帰って」
と一向に帰ろうとしない客に向かって、叫んでたような、記憶があるんですが、誰か、覚えてないかなあ。
私は、十二時四十三分新宿駅発総武線習志野行き最終電車に乗るべく、ダッシュ。一時期、東船橋に住んでたこともあったので。
若いゲイが、当時こんなに集まった店は、ないとあるから、僕と同年配の方、どなたか、当時の事、覚えてないかな。
このころ、女子プロレスが、全盛期で、 ビューティーペア、ジャッキー佐藤とマキ上田コンビ、が、歌って、タッグ組んでた。
彼女らにつずいて、デビル雅美とかが、出てきたんだと思う。なんせ、わたしゃ、女子プロなんて、全く、興味なしなんで、詳しくない。
さて、ここで、早送りボタンを押してと。
1979年にMAKOで 声をかけられたとすると、わたしゃ、二十四才前後、どっひゃー。 すみません、巻き戻して、早送り、まさに、二十年後、西暦二千年、このころ、某私鉄沿線に住んでたので、山手線との乗り換えのS駅近くの店に、よく行ってました。
お金は、少ない額が回ってて、四畳半フロなし、トイレ共同、家賃月二万円野村荘。節約の日々でしたが、楽しかった。
そのS駅、JR中央線に行ってる私鉄始発駅のすぐのPというお店に、あだなというか、エンジェル田代さんという、ま、おじさんのお客さん、常連さんと よく、一緒になりました。別に お話するわけじゃないけど。
なんで、エンジェルかというと、やさしいからか? まあ普通の感じだし、明るいけど、天使には、みえないなあと思ってた。
このPという店は、客層は、ミックスだけど、主流は、おじさんがおおいかな。乗換駅なので、かえりにちょっと一杯飲んで、という便利による店。 ママは、九州の島出身で、テニスコートで、ボールを追っかけてる人。
ある時、ママとエンジェル田代さんとの会話に、自分の耳をダンボにしてると、どうも この店には、同性の田代さんが二人いるので、呼び名をつけていることが、わかった。 で、もう片方の名前は、デビル田代。 で、どうも デビル田代のほうは、若い子をポイ捨てしちゃう奴みたい。若専で、若い子を口説いちゃあ、振って、また新しいのをとっかえひっかえしてるみたい。 エンジェル田代さんのほうは、ただ、飲むだけで、そういう色っぽい話は、ないし、早くいやあ、もてない。デビルのほうは、もてる。 勿論、デビルのほうの田代さんは、自分が、デビルとよばれていることは、知らないみたい。  あくまでも、ママと エンジェル田代さんのふたりの 笑い話みたい。
お店で、他の客のことをいうのは、通常 ご法度ですが、まあ、ゲイバーなんで、少しは、いや、大げさに噂するんは、普通かも。
このPという店も、狭い店で、どんずまり、カウンター三席、その手前、テーブル四人、手前壁際いす四つというへんなつくり。
ある晩、どんずまりカウンターに、かっこいいおじさんと若い子二人が、いて、若い子二人は友達同士で、かっこいいおじさんは、どうみても、若い子のひとりを口説いてる雰囲気。 むむむ、、、、デビル田代や、、、、、。 相変わらず、おしゃれで、いい男。
東山紀之と、バニーマ二ローと、誰かを足して、三で割った感じ。(変?)  そうですの、二十年前、MAKOで声かけられて、すぐ私がふられちゃった、私をティシュの如く、ポイ捨てした、 田代さん。 二十年前とあんまり変わってない。 多少、わずかに、太ったかなというくらいで。 後ろ姿だけど、すぐわかった。 トイレに行くとき、私の目の前を通ったけど、彼の頭は、いま、若い子の事でいっぱいらしく、周りの事は、何にも目にはいらないみたい。 その時にお見かけしてから、既に もう 十七年、経ってしまいました。
見てみたい。
 
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村岡 秀俊

Author:村岡 秀俊
のどが少し痛いけど、そんなのふっとばして、生きてゆこう

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